Y E Z O III

SUMMER , 2018

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 Y E Z O note #3

なぜ写真を撮るのか。
それが例えば衝動的な行動だとして、何が衝動的に私に写真を撮らせるのか。
13年前の当時でさえ、捉えようとする目的もないままにカメラを常に何かに向けていた。
旅から帰った13年前の私はその場所を「ファンタジー」だと言い表していた。
モノクロの視界から抜け出し、光によって色彩の強度を付けられた私は、人に説明する手段としてその単語を選んだのである。
「ファンタジー」は今私が生活しているこの「社会」とは対極にある場所を指し示していた。
民俗学とは現在の生活意識までをも含む、日常生活文化を考察する学問であり、
当時そうした日常性の意識の強い中でその対極にある非日常的単語として選んだ言葉なのであろう。

私は数年後、パソコンの画面上で再びその「ファンタジー」と出会うこととなる。
しかし、デジタル化されたかつての写真は数年の歳月を経て、「社会」の対極性の表現としての「ファンタジー」と違う印象を私に与えた。
人間の眼とは違いカメラは無感情に対象をとらえ、写真として存在させる。
それは人の意思が介在しなくても写真は写真として在るということである。
それはもはや物体ではなく、デジタル写真というただの連続的な情報となった現代でも同様だ。
一つ言えることは私は確実に私が出会ったであろうその「世界」と再び接触したのである。

カメラを何かに向ける際、少なからず何かの意思決定をもとに人はシャッターを押している。
人々が写真を見る時でさえ、そのカメラの背後にあるその情感を無意識的に信じている。
そうして空間的にも、時間的にも対象を一点に集約する写真に、撮る側も見る側も特別な役割を担わせているのである。
しかし、もっと端的なものとして写真は意志伝達手段としての言語と違い、事物そのものとの関わりなくしては成り立たない原理がある。

私は13年前に見た「世界」に向かうことを決めた。
思うままに「世界」を色付けし、描くのではなく、あるがままの「世界」を得たいという願望が少なからず、
しかし確実に存在したのである。